江戸の頃は、旧暦を使用していたので、今の太陽暦とは一ヶ月違います』

・・・なんとなく、ずっとそうは思っていませんでしたか?
少なくとも、私はそう思ってました。(^▽^;)
ですが、日本の旧暦の本名『太陽太陰暦』というそうで、実は「太陽を基本とした、太陽暦」と、「月を基本とした、太陰暦」の合体版の暦であり、日本人は長らく、この暦を使って生活をしてきました。
暦

今、私達が使っている太陽暦は、毎月30日か31日(2月だけは別)ですが、江戸の頃は、29日か30日で、これが入れ替わりでやってきます。
作物の育成に役立ち易いばかりか、1日は必ず新月で、15日は満月(十五夜)です。
なので、潮の満ち引きに関係のある漁業者にとっても、ものすごく便利な暦なんだそうです。(゜-゜)

・・・ただ、太陽暦は閏年が4年に1回であるのに対して、こちらは19年に7回(!)
・・・つまり、3年に1回位の割合で、閏月のある閏年が発生するという事。
太陽暦では1日増えるだけの閏年ですが、太陽太陰暦では1ヶ月(つまり、29日又は30日)増えるんですね。
これで太陽暦と、そうは変わらないように調整しているんだそうです。( ̄_ ̄ i)
また、この暦の基準は「冬至」だそうで、平成の私達は12月にこの行事を迎えますが、旧暦では11月になります。

ダウンロード日本という国には、陽が沈めば「一日が終り」と考える習慣がありますよね。

大晦日には、「命、長かれの呪い(まじない)」として、うどんや蕎麦を食べる風習があるのは、ご存知の通り。
そして、大晦日の夜の食卓を見るとこれまた、お蕎麦を食べている家もあれば、もうお正月のご馳走を食べている家があったり、様々ですよね。
・・・これは、「前の年が、日暮れと共に終った」と考える家なら、お蕎麦はお昼辺りで済ませておいて、大晦日の晩には、晴れて正月のお料理を戴きますし。(^_^)v
・・・いやいや、この呪いは夕食に行うべきと考える家なら夕食でか、「いや、いっそ、二年越しの呪いにしてしまえ」とばかりに、除夜の鐘を聞きながら食べる家もあるらしい。
・・・こうして、年末年始は「お祭りのような行事が続き」ますが、この祭礼の料理というのも、日本各地でさまざまなようです。

日本では古来より、おめでたい時に食べるモノとして「餅と赤飯」がありますよね。
特に「糯米(もちごめ)を蒸して搗(つ)いた餅」を、しかも目出度い時に食べているのはどうも、日本人だけのようです。

餅が祭礼に結び付く前に、さらに原始的な祭礼の料理として、「粢(しとぎ)」というモノがあるそうです。

生の白米を水に漬けて、柔らかくしてから粉にして、丸めてお供えします。
おそなえ・・・資料には、今でも山形の月山の麓辺りで作られているようですが、村祭りではこれを作って、お供えするだけでなくて、里人は食べなくてはならないとか。
・・・土地の人間は食べ慣れていても、よそから移り住んだ住人にとっては、「これを食べなくてはならないのか・・・」と苦悩するほど、大変に不評で、美味しくない行事食みたいです。(^_^;)

また、日本では「黒は不吉な色」とされていますが、処によっては「赤も不吉」とされている地域もあるようです。
・・・これは、「赤という色が、血を連想させる」からだそうですが、やっぱり少数派のようで★
多くの地域では、赤は火と結んで「吉祥の表象」にされているので、赤小豆(何しろ古事記にその名があるくらい、伝来が早かったので)古来より、米に混ぜて炊いたり、糯米と一緒に蒸して赤飯にしたり、牡丹餅にしたり・・・などなど、
こちらは、目出度い時には欠かせない食材になりました。
ちなみに葬儀や法事の折には、黒豆を入れたり、白い強飯(糯米を蒸した)を添えているんだそうです。

「餅と酒は、江戸人の嗜好の双璧」となるほど、一般的な食べ物でしたが、三代将軍・家光の頃までは、女が堅杵(左図参照)で搗くモノだったようです。

yjimage・・・これが、五代将軍・綱吉の頃には、餅つきに横杵を使うようになって、男が搗いては、男がこね取り
・・・そして今のように、いよいよ男が搗いて女がこね取りをすようになったのは、更に時代が下って十代将軍・家治の頃だったとか。

また、レシピ的にいうなら、お餅は「お菓子」の分類に。
春になれば、ヨモギやハハコグサを入れて草餅にしますが、これは、元来の意味は増量にあったとか★
・・・今では、完全に風味が中心になって、大豆や青のり、ゴマなど、とにかく何でも混ぜて搗いて食べていますよね。(゜-゜)

中に搗き込むだけでなく、葉っぱで挟んだお餅もあります。

tubakimotiこれで古いのが「椿餅」だそうで、なんと源氏物語にもその名があるそうなんですが、私は食べた事がありません。(^_^;)
椿はもちろん、朴の葉など、香りの良い葉で挟むそうですが、同じように葉で餅を挟むと言っても、柏餅や桜餅はまた別モノなんだそうです。

・・・こちらは、中に包むのが糯米ではなくって、「しんこ餅(白米を粉にして、水でこねて蒸す)」や、普通に食べている米を、粉にはせず、そのままに搗いたモノであったり、道明寺糒(ほしい・・・つまり例の古くからある、飯を乾燥させて保存性を高めた兵糧食。それを粉にして)作っていたので、正確にいうと「餅の分類には入らない」とのこと。(゜-゜)

もちつきちなみに柏餅は、五月の節句に食べるモノとされていますが、葉の広い柏が生えない地方(関西から九州にかけて)では、端午の節句には、粽(ちまき)は作っても、柏餅を作る事は少ないのだとか★
・・・これが、つぶ餡で作るなら牡丹餅で、こし餡は「お萩」と呼ぶとか、一応はなっている・・・らしいんですが★
これもまた、餅米オンリーで作る事もあれば、米で搗いてとか、双方混ぜて作る事も多くて、さて学者さんが分類しようとしても、統一性がなくってホントに、どうにもしようもないようです(笑)

また、餡を餅にくるめば、大福餅ですよね。

この、・・・大福餅。
「砂糖と白玉粉を、蒸して作った求肥(ぎゅうひ)餅」で餡を包む事も多いそうですが、この求肥餅というのが・・・またまた。( ̄_ ̄ i)
もち昔は白砂糖は大変に高価だったので、その代わりに黒砂糖や、赤砂糖で作っていたらしく。
・・・その色が、余りにも汚らしい事から「牛皮(ぎゅうひ)」と文字にして、この名前でずっと呼ばれていました。
御所詞(宮中の隠語のようなモノ)では、たんに「牛」としていたそうですが、これが白砂糖で作るようになってからも何だか、見た目はずーーーっと美しくなったのにも関わらず、この旧名で呼ばれる事が長らく続きます・・・。(^▽^;)
・・・ただ、余りに下品な名前だと誰かが思ったみたいで、ともかくも文字だけを変えて、「求肥」という名前になってから、江戸には伝わって来たのだそう。
これが、三代将軍・家光の頃です。

白玉粉はどうやって作るかというと、糯米を洗ってから水に漬けて、水切りをします。

usuそれから水を加えて細かく砕いてすり潰したら、さらに水に晒して乾燥させて作った粉なんだとか★
・・・昔は、寒中に作ったので、寒晒し粉とも呼ばれていたそうです。

米を粉にするとか、小麦粉や豆を粉にするとか。 奈良朝時代より前には、すでに、(ほしい)を炒って粉にして作る米粉が日本にはあったそうです。
ただ、昔は水車がなければ、・・・それも、水車を利用して粉挽をするという技術が産まれる前は、みんな、石臼で粉挽をしたんですよねぇ。。。(゜-゜)
豆だとたしか、一粒ずつ入れて挽くはずだし、これが米とか麦なら更に、気の遠くなるような手間が掛ります。
_N0A0012もともとは、屑米をどうにかして食べるようにと始ったとも言われてますが、農家にとっては、これは秋冬の夜長のアルバイトだったそうで、今も多く残る「粉挽き唄」には、そのせつなさを訴えたモノが多いんだそうです・・・。

想像してみれば、さもありなん★
秋冬といえば、16~17時にはもう、火が暮れてしまいますよね。
暗い部屋の中で、石臼をゴロゴロ。
挽いても、挽いても、終らない。。。
せつない・・・・・・。(T_T)

6月から始まったこの「ねんきら」ですが、まだ何とか、来年も続けていきます。
ご意見、ご感想など戴けたら嬉しいです。o(^▽^)o