ゲリラ豪雨に加えて台風、9月に関東には何がしかの災害が起こるやも(!)
・・・となんだか、不安にうろっ・・・としそうな昨今ですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか、毎度の、はわゆでっす!
・・・さて今回は、今年の大河ドラマ「軍師・官兵衛」の放映が、いよいよ織田信長の「本能寺の変」を迎える・・・といった頃にしていたお話です。
林流では、毎週水・土曜日に殺陣の稽古があるのですが、時節柄、やれ「今年の信長は、どうやって死ぬのか」とか。
そんな話をしていた時に、ふと・・・はわゆサンが気付きました。
「そういえば、人生、50年~♪の敦盛って人は一体、どんな人だったのかなぁ???」
・・・皆様ご存知の通り、「調べ物と歴史の話は、からっきしダメ(!)」な・・・はわゆサン★
ところが、はわゆサンの殺陣の稽古仲間で、今は殺陣指導はもちろん、林先生の助手を務めている中川泰幸さんは違います。(-“-)
なにしろ、趣味は古戦場巡りとお城巡り。
ヘタな歴史の先生の授業より、中川氏の話を聞いていた方が、数十倍も判りやすいというのは、はわゆサンの太鼓判(!)
まるで、その・・・さも見てきたかのような状況説明と、旧友を話すような人物解析。
物語を聞くような感じの語り口調なので、まるでマンガを見ているかのように、すらすらすら~♪と頭の中に入ってくるんです。
出来れば中学・高校時代に、こんな先生に巡り合っていたかった。(T_T)
そんな中川氏の思い出すことには、「敦盛ってたしか、平敦盛のことじゃなかったっけ?」
たいらの・・・といえば、出生は平家ですよね。(゜-゜)
信長は戦国の武将だから、「平家の時代の話が、物語か謡になって」いても、おかしくはない(?)
「・・・たしか、敦盛が逃げようとしてる処を熊谷直実が・・・」
「おぉ出てきた(!) 熊谷のシンボル、直実!」
・・・と、稽古場は沸いたんですが、熊谷直実(くまがい・なおざね)は、埼玉県は熊谷市の、その名の由来にもなったお方とか★
「秘密の県民show」で、「直実節という踊りは、熊谷にすむ県民なら誰でも踊れる」というくらい、リスペクトしているなんて話もあるくらいです。
「うん、だから直実が一の谷の合戦で敦盛を捕らえて、首を撥ねようとはしたんだけど。
よく見たら、自分の子供と同じくらいだったから、ふと可哀そうになって逃がしてやろうとしたんだって。
そうしたら逆に、敦盛の方が「やってくれ」と言っちゃうし、仲間も来ちゃうしかなんかで、仕方なく首を撥ねた、っていうような話だったよ。
たしか笛の名手かなんかだと思ったけど」
「・・・でもでも、そんな子供くらいの年だったなら、人生50年は、生きてないんじゃないの?」
「だから多分、敦盛ってのは辞世の歌とかじゃなくて、誰かが敦盛を思って作ったモノなんじゃない?」
へ~え、そんな話なら、今度「ねんきらエッセイ」でネタに詰まったら書こう~♪ なんて思ってたんですが★
・・・はてさて。
テレビや映画でもよく、本能寺の変の折に信長が、「人生50年~♪」と
舞い踊っております。
この為に役者さんは、能楽師の方から指導を受けたりするので、はわゆサンももれなく、これはずっと「お能の楽曲」と信じておりました。
・・・ところがっ(!!)
歴史を紐解いていくと、本物の信長が舞っていたのは「幸若舞(こうわかまい)」であるらしいのです・・・!
さて、「幸若舞とはなんぞや(!)」
日本の芸能の走りは平安の頃とか、もっと古くからとも申します。
農耕民族なだけに田楽とか、神を祭るなら神楽、猿楽なんてのもありまして、その猿楽を極めて能楽にしたのが、かの有名な観阿弥・世阿弥の親子ですよね。
時代でいうなら、南北朝から室町時代にかけてのことだとか。
もともとの猿楽は、滑稽なモノマネや言葉芸が主だったそうで、それを歌舞劇にしてのが能と呼ばれ、滑稽な笑いを中心にした狂言とセットで催されるようになったのは、皆さまもご存知の通りです。
・・・それでは、幸若舞はどうかといえば、出生は室町時代の後期。
桃井直詮(ももい・なおあき)という人がいたんですが、その幼名が幸若丸(!)
声明(しょうみょう)と平曲(平家琵琶)なんかの曲折を取り入れての、創始だとか。
佇まいは、烏帽子と直垂を着て、鼓に合わせて謡い舞うそう。
・・・彼が室町産まれの故か、その楽曲は武家を題材にしたものが多くて、特に平家物語や義経記、曽我兄弟の辺りの作品が多いそうなんです。
もともと、この桃井さんは「幸若系図」によると源義家(八幡太郎の別称で有名・平安後期の源氏の武士)から12代くらい後の血筋の方のよう。
越前国丹羽郡西田中村に住んでいたそうですが、父の死後、比叡山の稚児になったそう。
この「稚児」というのは、寺社や神社なんかで祭礼や法楽の折に、美装して行列する者のことで、産まれつき歌舞音楽に優れていたとかで、草紙に節をつけて謡っていたのが評判になって、その幼名から「幸若舞」と呼ばれるようになったそう。
越前で出来た、この舞ですが★
それからは紆余曲折があって、今度は招かれて、九州は大江(現在の福岡県みやま市)に、その一流派(大頭流)が移り住み、柳川藩の家臣達に伝えられたんだそうです。
ところが、明治維新を迎えると越前・大江ともに衰退し、越前の地では絶えてしまいましたが、大江の方にはまだ、その舞を伝えている者がいるそうです。
信長が舞ったのは、この越前幸若流の「敦盛」だったようで、信長の家臣でメモ魔の大田牛一の書き遺した「信長記」にも。
・・・彼はその当時、本能寺にはいなかったので、逆に生き残ってこの書を書けた訳ですが、信長活躍の切っ掛けになったと言われる桶狭間の戦いの折には傍にいたようで、戦いの前夜にこの敦盛の一説を信長が謡い舞い、陣貝を吹かせ、具足をつけて、立ったまま湯漬けを食した後に甲冑を付けて、出陣したなる記述があるそうです。
この「敦盛という曲」は、幸若舞はもちろん★
日本の名立たる「平家物語の一説」にも、能楽にも、浄瑠璃にも。
そして、歌舞伎にまでも取り入れられているお話ですが、それぞれにお話の細かい部分が違ってたりとか(直実の子供が若くして死んでいたとか★)
タイトルが違うとか・・・そんな些細な事はありますが、敦盛が若い笛の名手であり、直実と一騎打ちをして負けて敦盛の首が撥ねられ、後年、直実が出家した辺りまでを表しているようです。
直実はなんでも、もともとは平家所縁の家に産まれた侍なのだとか。
ところが、父親が早くに亡くなったので養子に入り、そちらも平家に付いていたので、まずは平家に仕え。
・・・それから思う処あって源氏の一派となり結局、また更に更に思う処あって、かの有名な「阿弥陀教の教えを説く法然」に弟子入り(!)
蓮生(れんせい)という名前を与えられ、以降は各地にお寺を建てたりした生涯だったとか。
この敦盛は、「直実が出家した折に、世をはかなむ詞章を記した」そうで、その一説を信長が特に好んで演じたそうです。
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ
敦盛を討った事ばかりが出家の原因ではないと思いますが、念仏を唱えれば救われると法然さんに説かれ、一説には自らの死期を知り、本当に念仏を唱えて事切れたとのお話もあります。
自生を全うするというのは、人に与えられた一生のテーマのようですね。
うーん・・・、そんな一生に自分も出来るモノか、悩んでみたりする今日この頃であったりして。(^_^;)