ゲリラ豪雨はもちろん、何やら台風までが、数珠繋ぎでやって来る・・・っ!

そんな昨今の日本ですが、皆さまのお住まいは大丈夫でしたか?
はわゆサンの実家の小金井市や、はわゆ事務所は大丈夫だったんですが、埼玉県は和光にも近い「殺陣道場・武劇館」が(!)
yjimage・・・何しろ、坂の途中にある道場なので、和光で高架化道路が冠水してお茶の間を騒がせていた時などは、建物下部の駐車場から、床上にまでもちらっと浸水(!)

浸水した部分を消毒してもらったり、後日、またこんな事があった時の為にと、土嚢をもらって来たり、対策に林先生は奔走されたんだそうです。(T_T)

9月の末には、御嶽山までが噴火するしで、ホントにびっくり致しました・・・。

20140927200304asodiao自然には誠に、人間は何一つ、一切勝てない・・・。
そんな事を思う・・・はわゆサンですが、今でさえそうなのだから、お江戸の頃なら。
さらにその前だったら、更にもっとだったかと思います。(-_-;)

そんな事をノホホン・・・と考えていた時、何故だか急に、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」という歌をひょんと思いだしました。
かような訳で、今回は大井川のお話をしてみたいと思います。

・・・ちなみに、今は亡き・・・はわゆママは、橋の好きな女でした。(^_^;)

はわゆサン的には、橋といえば何故だか瀬戸大橋を思い出します。
亡き父と最後に行ったのが、四国旅行だったからでしょうか。
本州から四国に渡るのに、行きは船だったかと思うんですが、帰りは出来たばかりの瀬戸大橋を渡りました。
header07渡ってみると、その技術はもちろん、その距離の長さにも驚かされたんですが、その時しきりに、
「(渡橋料金が)高いんですよ・・・」
と、バスガイドさんが嘆いていた事を、覚えています。(^▽^;)

そういえば、TBSドラマ「水戸黄門」なんかで。

黄門さまが「大井川の川越(かわごし)をしている風景」を、子供の頃に見ていたようにも思います。
・・・なぜ、当時の大井川には「橋がなかった(!)」んでしょう・・・。00AU0000024
歴史の苦手な・・・はわゆサンにとって、それは特に興味のない事でした。( ̄_ ̄ i)

とっても広い川に(映像では)見えたので、当時はまだ、こんな川に橋を渡す技術がなかったから(!)
・・・だから、橋がなかったんだろうなんて、何の疑問もなく思ってました。

はてさて。

それが今年に入って、NHKの「歴史秘話ヒストリア」で「加賀藩の参勤交代は、どのような旅路を辿ったか」といった番組が放送されていたんです。
b6c8c6e58303f395e59844de70c07080とにかく当時の人にとっては、エラく大変な事だった・・・というような内容でした。

当時の参勤交代の大変さを紹介する番組でしたが、加賀藩だけでなく、何やら藩の場合はこんな苦労を・・・といった下りがあり、その中にたしか、大井川も紹介されていたようで、はわゆサン、ウンジュウウン歳にして初めて(!)
・・・初めて、興味を覚えたんでございました。(〃∇〃)

関ヶ原の戦いが終った翌年の1601年、お江戸から京都までを繋ぐ東海道のお話です。

全長で「126里6丁1間」、現在に換算して、約492キロ(!)
・・・これを当時の人は、12日から15日くらいで歩いた(!)という事は、1日40キロ程を平気で毎日歩いたんですか? 日本人★
うーむ・・・。 (^▽^;)

20120611_2578461お武家様なら、この距離を馬で行く処でしょうけれど、馬だってずっと走っていたら疲れるし、人も疲れます。(´_`。)
公務ならば、同じ人や馬で移動するより、人馬共に交代をしながら道を辿った方が、ずーーーっと効率的ですよね。(゜-゜)
・・・かような訳で、徳川家康さんは『東海道に五十三の乗り継ぎ場所』を設けました。
もともとの宿場町を活用しての、この数なんだそうですが、宿にあたる旅籠はもちろん、お役所も各所に備えた訳で、これを伝馬制度」というそうです★

ここで登場するのが、静岡県の島田宿と金谷宿です。

徳川家康さんは、江戸幕府を開いたら、あっという間に引退(!)
19・・・故郷の静岡は駿河城に引っ込み、大御所として暗躍を重ねますが、一応足元は整えたものの、まだまだ落ち着けない事情がそこかしこにあります。(^_^;)

そこで、もちろん駿河の周辺には「信頼のおける殿様を置いた」訳ですが、いつ何処が敵になって、襲って来るかも判りません。
・・・そこで、船で藩越えをしても良い川と、徒歩でしか出来ない川とを幾つか設けたそう。
特に大井川は、藩境にある川だったので、念には念を入れて架橋と通船は禁じた(!)のだとか★

何しろ、川越人足に頼らなければ一切、川が渡れないご時勢に。

朝の明け六ツ(午前6時頃)から、暮六ツ(午後6時頃)までが営業時間です。
毎朝、待川越と呼ばれる役目の者が水深を測り、川会所前の高札(島田と金谷の二ヶ所)で、本日の値段を知らせます。
kawafuda-nedan水の深さで、お値段が5種類に分かれます。
人足の脇通(わきどおし)と呼ばれる(1.5m)まで水が来たなら、今日の川越は中止です。
・・・天下人の定めた事ゆえ、他に手段なんか、ありません。(´_`。)
なので、水が治まるまで宿かなんかで待っていれば、宿代までも、どんどんと嵩んでいきます。
「大自然には、勝てねぇ・・・」
と、一体どれ程の旅人が空を見上げて、ため息をついた事でしょう。(-_-;)

川会所は、こんなシステムがあります。

例えば、川越人足の長老のような人になると、「年行事という役」について、川越賃の取立や帳簿付け、人足の手配などの役目に付き。

20・・・そして、宿場町の役人関係からは、川越賃の統制や値段を定める「川庄屋というお役目」が立つんですが、地元ならまだしも、遠方からの旅人には、こんな難しいルールは判らないので、そこを手助けする「立会人なる役目の人」が、旅人に川越のレクチャーをしたとか★

よくテレビで見ますが、肩車(かたくま)というのが、人足の肩に跨って川越するタイプ。
本日の値段の川札1枚で渡れますが、帯通し(76センチ程)を越える水位だと、手張(補助)が付くのでもう1枚必要になります。
ちなみに川札1枚の値段ですが、最低の股通(またどおし)と比べて、高値の脇通(わきどおし)なら2倍にアップです。(゜-゜)

漣代(れんだい)越しは、「平」と「半高欄」と、「中高欄」に「大高欄」の4種類。

bunkazai-rendai-8947平なら「台に手すりがなく」て、乗り手が1人なら担ぎ手が4人(川札4枚)と、台の使用料の「台札」が2枚。
乗り手が2人
になれば、上記の川札に、台札がこれは4枚。
台に手すりが2本付けば、半高欄と呼ばれます。
担ぎ手は同じ人数なので、川札が4枚に、台札が4枚です。

手すりが4本の中高欄なら、担ぐ棒が台の下に2本長く伸びるので、それに備えての担ぎ手が10人に(!)

なので川札10枚に、介添えの手張が2人で12枚。
他に台札が24枚付くので合計、36枚もの大・出費(!)になります。(^_^;)

simadajuku「大高欄」なら、担ぐ棒が4本に増えるので、担ぎ手は16~24人(!)
手張4人が介添えについてで、台札が32枚の52枚になりますが、これは大名などを乗駕籠のまま川越する為のもの。
特別で、滅多にない川越かと思います。( ̄_ ̄ i)

そのほか、費用はないのか「棒渡し」といって、人足が棒を2本川に渡すので、それにつかまっての川越や、侍だけが許される馬渡し(馬に乗ったまま、荷物を載せたまま渡る)などあったそうですが、この川越人足になるには、12の時から見習いになって、技術を習得しなくてはなりません★
imgres川越人足には、身分制度までありますが、逆に認められてしまえば、収入の安定した職業だったそうで、明治に入ってからは、この川にも橋が架けられてしまったので、逆に、こういった人足達は職を失い、それはそれで大変な思いをしたと思われます・・・。

そんな・・・、そんな時代があったのね。。。
歴史が大の苦手な・・・はわゆサンが、東海道事情に目覚めた出来事でございました。。゚(T^T)゚。