3月31日に、大変ご近所さんではありますが、「念願の(!)引っ越し」を達成~☆

・・・色々、色々ありましたが、無事に身の丈に合った物件を発見致しましたっ! (^_^)v
CBjGoW0UsAAOj3E今回は、「初めての、引越業者にお願いして」の引越。
洗濯機は屋内になりましたが、フルリフォーム物件に引っ越して参りましたっ!

・・・とは、いうものの★
ネットが1週間使えず、HPの更新も若干遅れてしまい、その辺りはけっこう、心を痛めている・・・はわゆサン★

写真は前の築40年モノ物件ですが、4年前の引越の折には、「311の傷跡深い4月の5日に引っ越し」をして来ました。
・・・その折には、ずいぶん色々なモノを買ったりして当時は、
「311で苦しむ日本財政にはわゆサンはこんなに貢献している・・・」
などと叫んでいましたが、今回はそれほど散財する事なく、引っ越す事が出来ました。 ( ´ ▽ ` )ノ

・・・はてさて、タイトルを見て皆さん、

なんだか知らない会社の名前が・・・」
と、悩まれている事でしょう。
2・・・実は、はわゆサンの実家の会社名が、「株式会社 明道社(めいどうしゃ)」という、古式豊かな名前なんです。 (^_^;)

現在は、はわゆ兄代表取締役に収まっておりますが、・・・なんと(!)
実は彼は三代目で、二代目社長は、はわゆパパが勤めていました。
ウチの会社って創業から数えると、今年の4月1日で、80周年にあたるんだそう(!)
・・・そんな訳で今回は、ウチの80年の会社史にお付き合い戴けたらと、存じます。

さて、一口に80年前といっても、その頃の日本は一体、どんな時代だったのでしょうか。

k1525854687昭和10(1935)年といえば、「日本の国は天皇が統治するなる声明」が発表されました。
自由な言論が咎められ、軍国主義がいや増す時代へ。

・・・当時は、丹那トンネルが開通して、伊豆や熱海の温泉が、大賑わい(!)
忠犬のハチ公が亡くなったり、風呂付特急「富士(!)」なんていう、今となっては何だか良く判らない列車が、初登場したりしてました。

・・・当時の物価はと、言えば★

200px-Enoken_no_Kondo_Isamiたばこ(ゴールデンパット)が7銭、新聞購読が月で90銭(現在は、読売で4千円程度★)、白米が10キロで、2円50銭だったそう。

「二人は若い」なる歌が流行り、人気映画といえば、「エノケンの近藤勇」や「忠次売り出す(伊丹万作脚本・監督で初のトーキー映画)で、 出演は市川朝太郎や月形龍之介などなど★

・・・そんな頃に、鳥取県は、呉服商の息子だった創業者の大塚達郎氏が、何を思い立ってか、初の上京(!)
まずは出版社の広告部門に就職をして、やがて広告代理店として独立を果たしたという次第です。
初めての開業場所は、日本橋は室町でありました。 (゜-゜)

当時のマスコミは、一般の企業の出入りを制限する風習がありました。

cinamoroll0606-img428x600-1406694521mjizkh1462・・・これは、今もそうなんですが、「雑誌販売の副収入である広告」は入れたい処だけど、そちこちの企業と、直接の遣り取りは、ちょっと・・・。
そんな事から、広告代理店という仲介業が発達。

・・・そうはいっても、
「ウチの雑誌は売れているから広告なんかいらんっ!」
という、プライドの高い出版社も数多くありました。
なので当時の代理店は、とにかく認知度の低い零細企業(!)
だいぶ「バカにされている、職種の一つ」だったようです。

なので、掲載誌を渡したり、集金に行ったりとした営業業務の時も。
07122318300・・・そこは、キチンとした企業なら堂々と(!)表玄関から入室が許されるモノなのに、まるで「サザエさんの家に出入りする御用聞きの三河屋さん」のように、「勝手口から入ってくれ」、と言われる事も多くあったとか★
・・・今でこそ、広告代理店といえば有名な処では、「電通」や「博報堂」などなど。
ピッカピカの企業で、「一流大学の卒業者で、就職希望者が殺到(!)」する会社ですが、当時はこれらの会社も、まだまだペーペーな時代でした。

・・・はてさて。

それから先の日本は、どんどんと軍国色が強まっていき、明道社も存続の危機にさらされていきます。
map_21昭和10年代は、「太平洋戦争」が活発化。
マスコミは、完全戦時統制下に追い込まれ、例の「東京大空襲」では社屋も焼け落ち、命からがらな時もあったようです。

・・・さて、ようやく終戦を迎えた昭和20(1945)年。
なんとか命を長らえた大塚氏は、会社の再生に努め、1956(昭和31)年になって、まずは合資会社に。
1960(昭和35)年にはようやく、株式会社にまで組織変更。
場所も千代田区三崎町に移り、大塚氏は代表取締役に就任しました。

さて、当時の・・・はわゆパパは一体、どうしていたかと申せば。

manga彼の生家は、山形県は最上郡で、農家の10人兄弟(!)
男兄弟では末っ子、下から2番目という家族構成でした。
・・・勉学が大好きな人だったのですが、とにかく当時の農家では、
「百姓やるのに、勉強はいらんっ!!」
・・・という、時代でした。

なんとか苦労して入った大学も、結局は経済上の理由で、やむなく中退(!)

yjimage・・・「アルバイトに追われての生活」をずい分したそうですが、今は失われてしまいましたが、ようやく桃園書房という出版社になんとか就職できましたが、時代が時代(!)
・・・リストラの憂き目に遭い、当時は2名いた広告社員を、1名に減らす運びに。
・・・もう1名の方が、はわゆパパより年上で先輩で家庭持ち。
その方を思って、自ら希望退職をしたのだと、はわゆパパから聞いた事があります。

そして、二転三転してから、はわゆパパは明道社に就職。

・・・それから、さまざまなブームと共に、はわゆパパは生きてきました。
1940584400_45ちなみに写真は、当時のわが社の社員旅行のようですが、はわゆパパは一番後ろの真ん中の人です。

当時の広告は何と言っても、雑誌や新聞の通販広告が、全盛の頃でした。
・・・古切手が流行ったり、プラモデルが流行ったり、今でいう「結婚紹介」や「恋人紹介」なんて広告もありました。

また、面白い処では

茨城県水戸市に、はわゆサンなんかが、
「絶対に水戸黄門の印籠の中に入っていた薬違いないっ!!」
131432353_624・・・と踏んでいる、由緒正しき漢方薬「司命丸」を製造販売する司命堂製薬所とは、ホントに長らく取引があったのですが、当時の社長の高倉伴介氏は、7代目に当たるのだとか★

藤原鎌足に由来する家柄で、土地では知らない者はいないという、水戸の名家・高倉家
・・・寛政年間(226年前)に、高倉新五右衛門(初代伴介)将軍家御殿医の鈴木賜谷に弟子入りして、直々に秘伝を授与(!)
以来、「水戸」の名士として名を連ねる歴史が始まり、いよいよ今年の大河ドラマ「花燃ゆ(つまり、幕末★)」の時代では、尊王攘夷を唱える「天狗党」が水戸で結成(!)
20141113110445高倉家は、幕末運動の一環といわれる「回天運動」にも、出資されていたのだとか。

・・・それでも皆さまご存知の通り、最後には幕府に天狗党は、処刑されてしまい・・・。
その、勤皇の志士を祀る「回天神社」の建設にも、七代目高倉氏は貢献したそうです。
また、築200年にもなるという建物は「県文化財にしては」という声もあったそうですが、実際に住んでいる家なので断ったとも。

・・・今は薬事法改正で、こういった昔ながらの漢方薬屋さんの営業は、難しくなってしまいました。

「臨床試験など、潜りぬけた商品」は大丈夫なんですが、こういった漢方薬は、確かに長らく日本人に愛され健康を守ってきた商品のハズなのに、製造がもう難しくなってしまい、今は健康相談所として活動を続けているんだそうです。
logoロゴをクリックするとHPに飛びますので、良ければ見てあげて下さると嬉しいです。

また、今で言う「健康枕」などの商品を自社開発して販売していた、マグネロン本舗の小野田辰郎氏とか。
5今は製造販売元が変ってしまいましたが「ぜんそく散」「筑波山名物・陣中油(・・・つまり、ガマの油★)」という漢方を自家製造している種村製薬さんとか、今振り返れば、何しろ・・・はわゆサンは、小学生の時から明道社でアルバイトをしていたので★
想い出深い方が、多くいらっしゃいます。

また、こんな方もいらっしゃいました。(^_^;)

ある時、94歳の高齢ながら、東京の医薬学会に顔を出されたついでに、当時は水道橋にあった・・・当社に足を運んで下さったとある製薬会社の社長さん★
02_MG_8102-e1329357516944判れ際に何故か、小さな紙切れを下さいます。
・・・そこには、「女性モトム。身ノ世話ヲシテクレル方。」と、書かれていたんです。。。 (^▽^;)
もちろん、お仕事の話はその時していたのですが、とにかく耳が遠くて、会話は大変★
・・・なのに、なんとなく楽しいお爺さんだったと、記憶しています・・・。

かの人は、最初の奥さんが亡くなった後に、碁会所でなんと(!)
若い女性と仲良くなられたのだとか。
90才の時に、交通事故に遭われたそうですが、その時もとても献身的に世話をしてくれたのですが・・・悲しい事に、癌で先に亡くなってしまったのだとか。

free-illustration-respect-fただ、さすがに娘さんからは、「仕事の事はともかくも、そちらの方はどうぞ、まともに相手にしないで下されば・・・」との事でしたが、かの方は98才でこの世を去るまで(!)
新しい女性と知り合い、楽しい時を過ごせるよう願って生きられました。

・・・最後まで現役社長で仕事はもちろん、お茶を飲んだり、ご飯を食べたりして、楽しい時を過ごしたいと願われていたようですが、「最後のその一瞬までキラキラと元気に過ごしたいをモットー」とする、このまた我が身も、最後までこうあれたらなぁと思う・・・はわゆサンである★

ちなみに、明道社のメインの広告主サンは、健康器具の会社でした。

鉄工場の運営が危うくなった折に、その鉄を使っての「バーベルや、ダンベルなどの製造販売」を始めた会社でしたが、当時はライバル会社もまだなかったので、一気に形勢を盛り返せたんだとか。
ダウンロード

漫画雑誌や、健康雑誌に広告を載せているせいか、そこからヒントを得た商品も少なくないとか★
「鉄の爪からイメージしての、イーグルキャッチャー」や、ぴょんぴょんおじさんこと、ドクター中松が流行る前から、ジャンピング・シューズなども販売。

また「柔道一直線」で、主人公が履いていた鉄下駄や、アイアンシューズなど再現。

img_0漫画「リングにかけろ」で使われたとされるパワーリストや、「巨人の星」で大リーグ養成ギプスにヒントを得たという、スナッパーマシン鉄扇、ブルースリーのヌンチャク・・・などなど★
今は通販もほとんど紙ではなく、ネットの時代になりましたよね。 (^_^;)

はわゆパパが代表取締役になった当時(1967年)は、社員もいた明道社でありますが、ある時、1人での経営に切り替わり★

・・・そして1981年、はわゆパパが死亡退任をしたので急遽、別会社に就職する予定であった・・・はわゆ兄が代表取締役となり、2001年には社屋を東小金井に移転。
貸室業などを定款に加えて、新しいスタートを切りました。

そして2005年には、会社の営業の一つとして、芸能的事業の窓口を作り、「オフィス・リバティ」と名付けました。

nani-1はわゆサンが何らかの活動をする時、何か名前があった方が良いだろうと思ったのですが、リバティからは殺陣教育DVD動画販売グッズ販売も始まりこのHPも始まりました

そんなこんなで、80周年です。
あと20年、頑張れるか判りませんが、一歩一歩、歩んでいきたいと思っております。
ここまで読んで戴けた皆さま、ありがとうございました。
これからも楽しんで戴けたら幸いです。

※80周年を記念して、クオカードを作成しました!
 2015年4月13日~30日まで、抽選で5名様にプレゼント致します!(このプレゼントは終了致しました、ありがとうございました)
 希望者は、こちらのメールフォームからお申し込み下さい!