真夏日が続いたかと思えば、豪雨注意報発令!

たまに夕立が降ったりすると、あれ、日本らしい天気に戻ったのかな、なんて思ったり。
・・・ある時には外の様子を眺めながら、いやいや、やっぱり日本は亜熱帯化しているんだわと、しみじみ頷いてしまう昨今ですよね。
ダウンロード皆さまいかがお過ごしですか?
ご無沙汰しております、はわゆです!

前回に引き続いて・・・最近、歴史に興味の出て来た・・・はわゆサン★
前回は織田信長関連だったのですが、この度は幕末について勉強してみるつもりになりました。

・・・幕末って、難しいような気がものすごくするのですが、今回の講師は、安藤優一郎さん。
歴史家で早稲田大学の文学博士なんだそうで、ものすごくたくさんの書籍を出版されているよう。 (゜_゜ )
前回の明智先生なら、著書に「歴史捜査」という言葉が使われているのですが、この方の場合は「不都合な真実」というものらしく。
・・・こういった言葉の類いは、出版社が考えているとのお話でした。

さて、幕末といえば思い出すのは。

はわゆサン的にはやっぱり、NHK大河ドラマでの「八重の桜」
薙刀指導をした想い出もありますが、「龍馬伝」やら「徳川慶喜」なんてのも幕末ですよね。

「八重の桜」(第26回) 2013年6月30日教科書でいうなら、慶喜が慶応3(1867)年10月14日に大政奉還
その後といえば、例えば上野で彰義隊が戦っていたりだとか。
・・・けっこう、あっという間に江戸城が無血開城をしたという感じに思っていたのですが、会場で戴いた資料を見ますと、とにかく物事が色々、色々とあったようで、なんとか片付いて落ち着くまでに、約1年もの歳月を費やしていたようです・・・。

たしかに、江戸幕府270年の歴史を一度に変革しようとするなら、それくらいの時間でもまだ、足りない位なのかもしれませんねぇ、しみじみ・・・。

大政奉還を行った、徳川慶喜。

C-_Users_chura_Desktop_61nlhGws33Lようするに、「政権を、幕府から朝廷にお返しした」のですが、その当時の幕府軍は、まだけっこう良い武器も持ち、がぜん優勢だったよう。

逆に、薩摩・長州の方が、兵の数も徳川に比べれば極端な程に少なく、劣勢でした。
倒幕の勅命(朝廷が下す命のこと★)により、いざ戦・・・と意気込んでいた処に、幕府軍が素早く政権を返上してしまったので、「あれ?」という感じで、新政府軍としては、気持ちのやりように困ってしまった・・・という処から始まったようです。

さて。徳川慶喜は政権を返上しましたが、幕府軍の下々の気持ちは、それではやっぱり収まらない。
慶喜はまだ大坂にいましたが、お江戸にいる徳川軍、江戸にあった薩摩藩邸を焼き討ちしたり、海上の方でもまた兵庫沖で、徳川の軍艦・開陽が薩摩藩の軍艦・春日を砲撃したりと。
慶喜さんは大人しくしていても、そちこちでけっこうにアクティブに動いていて、そうこうする内にその年も暮れていきます・・・。

徳川勢は1万5千、大して薩摩・長州の兵の数は、5千・・・。

images京都におわす天皇を、なんとか安全な広島藩にまで逃がしたいのだけれど、そこには慶喜自慢(!)の歩兵隊が頑張っているので、どうにも出来ません。 ( ̄_ ̄ i)
そのうち、大阪から京都へ攻め上ろうとする幕府軍と、京都にいた新政府軍が、鳥羽・伏見で衝突。

徳川勢が薩長同盟を甘く見ていたともありますが、まず新政府軍に出鼻を挫かれてしまった事で、しょせんは徳川軍も「数は多いけれども、寄せ集めの軍だった」という事で、指揮が大・混乱★

・・・その陰で、京都で行われていた新政府軍の会議において、「降伏という姿勢を取っていた慶喜の立場」もとうとう、
「徳川軍って、これだけガンガンに攻めてるよね。だから慶喜さんはもう、朝敵だよね(!)」
ダウンロードという処分で決まってしまい、年明けて5日、意気ようようと錦の御旗(鎌倉時代からの、朝敵討伐の印を幕府軍に対して、新政府軍が掲げてしまいましたから、(薩摩・長州と戦っていたとばかり考えていた)京都は淀藩もさすがにびびってしまい、伊勢にある津藩までも「朝廷を裏切るなんて、とんでもない」とばかりに、幕府軍を裏切ります。 (><;)

さて慶喜さんも、「ご自分が朝敵にされてしまった」という事で、一目散に大阪城から脱出致します。
・・・諸々あって、ようやくに慶喜さんは12日に江戸城にたどり着きますが、「逃げた」とあっては、幕臣の不満も一塩★

慶喜さん、頑張ってなんとか、徳川家内部の立て直し。

なんとか「幕府側は、政権を返上した事でもあるので、戦はしない」という姿勢を見せるんですが、そちこちで色々とあって、燻る様子も。
photo0000-08241ヶ月ほど、擦った揉んだの後で、2月11日に慶喜さんは幕臣に「戦はしないよ」と意思を伝えて、絶対恭順を唄って上野は寛永寺(将軍家の霊廟★)で謹慎の身となります。
・・・そこでいよいよ勝海舟さんが表に立って、交渉の遣り取りとなっていくのですが・・・。

さて、勝さんです。
西日本に知己が多いとの事で幕府軍側より、交渉役として抜擢をされました。
この後、新政府軍では、かの有名な西郷隆盛さんと交渉するようになりますが、西郷さんと勝さん、まだ殆ど面識はありません。
そうこうする内に、2月23日に「もう、新政府軍に江戸を良いようにされるのはイヤだ」という人々が集まって、かの有名な彰義隊を結成致します。

・・・というのも。

慶喜さんが江戸に戻った事で、新政府軍もどんどんとお江戸へ入って来ています。
imagesところがお江戸の町の人々からすると、自分たちは着物を着ているのに、あちらは見たこともないような格好(つまり、洋服★)を身に纏い、しかも頭には、妙ちきりんな帽子まで被っています。
・・・見るからに怪しく(!)「あいつらは、悪人だ」といった印象に見えるのに対し、お江戸の彰義隊のメンバーは「明日には、死ぬ命だから」とばかりに、こちらは吉原は遊郭に通っての勢いのある様子でとにかく、なにしろ金払いの方が大変に良ろしい。 (^▽^;)
・・・新政府軍の方は、そうではなかったという事で、「情夫(いろ)に持つなら彰義隊」なる言葉が、遊郭内では流行っていたという事です。

はてさて。

勝さん「敗戦処理を得意としている」そうなんですが、まずは山岡鉄舟さんが勝さんの代理として3月9日に、静岡は駿府で新政府軍は西郷さんと対面をします。
ダウンロード・・・すると、西郷さん。
この時点ではまだ、現場監督といった立場であったので、幕府軍の意向を聞くと、翌10日に京都へ船で駆け戻り、まずは上にお伺いを立てます。
この辺、お役所の仕事と変らないとは、講師である安藤さんのお言葉★

慶喜の助命嘆願の代わりに、軍艦や兵器を引き渡す心づもりであるとか、江戸城はもう開城(慶喜が江戸を去るので)します。だから徳川には江戸城はそのまま残して欲しいなどといった、とにかく色々とお願いをします。

西郷さん、2日後には(つまり、12日★)に江戸に戻って参りますが。

「15日までに無条件降伏しないなら、総攻撃をかける・・・」といった内容だったので、幕府軍が反発★
たしかに、もちろん下準備をしていたとしても、江戸城って広いですもんねぇ。。。
images嘆願が聞き届けられたかという点も気になりますし、その辺りで勝さんの取りなしがあったのか、西郷さんが独断(!)で総攻撃を中止してくれたんですが、新政府軍の板垣退助さんだとか、そちこちでまたけっこうに反発が怒ります。

・・・幕府軍としては良かったのですが、この辺りから西郷さん、どんどんと立場が悪くなっていったそうです・・・。

擦った揉んだの末に、「とにかく4月11日までには、無血開城を」という流れになり、・・・これまた、それに反発する幕府軍の歩兵がいたり、軍艦なんかの脱走(考えてみれば、それもスゴイ★)もあったりしますが、何とかかんとかそちらの流れの方に持ち込んでいき、慶喜さんは水戸藩お預けの身と決まったので、ともかく江戸を4月11日に立ち去りました。
ともかくもこれが、「無血開城という真実」になるわけです。

ところで、無血開城の5日前(閏4月6日)の事です。

幕府側のお願いは色々とありましたが、新政府軍のいる京都ではそれを基に、徳川家の処分の評議が開かれました。
imagesまずはともかくも、徳川家はお国換えさせてしまえ、という事に決めてしまいます。
(もともとは800万石の徳川さん★)ですが、まぁ、100万石ほど食い扶持を与えておけば良かろう、という話で纏まりました。
公家の三条実美が西郷さんを従えて、意気揚々とお江戸へやって来ます。
開城をした江戸城に4月23日に入城をして、25日には100万石と思っていた処を70万石にと、こっそりと変更★
ですがこれを言ってしまえば反発が激しくなるので、黙ってこっそり、着々と物事を進めていきます・・・。

さて、4月29日の事です。

徳川の跡継ぎをまず、亀之助にと新政府軍が定めます。
城内に残っていた反発派を減らし、城が我が物となった処で新政府軍は5月1日にようやく、幕府軍側に移封(江戸城は返還せず、お国替え)だけをまず、伝えます。

images・・・城が我が物となれば、目障りになるのが上野寛永寺に詰める彰義隊★
9日には討伐を決めてしまいますが、・・・これには勝さんもとてもマズいと思ったようで、彰義隊側にとにかく解散するよう説き伏せたのですが、甲斐もなく。

兵力の大きい新政府軍に対して、たった千人ほどの彰義隊はとにかく、装備は旧式だし、寄せ集めの兵でもあったので、15日には敗戦の運びに。 (-_-;)

それからです。

・・・彼らを倒した後で、24日に。
実は、「100万石ではなく、70万石に減俸した。幕府は駿府(この時、「静岡藩」なる領地が、一時的に誕生★)へ移れ」と、新政府軍から申し渡されてしまうのです・・・。

mここまで来てしまっては、徳川さんには、どうにもなりません。
・・・致し方なく、旧幕臣達に、明治政府に出資して朝臣になるか、はたまた、武士を捨てて農民や証人になるか。
それとも無禄覚悟(収入ナシ!)で、静岡に移住するかを選ばせたんだそうですが、、、
けっこうな人々が静岡の地へと移っていったそうで、大変な苦労を経て牧ノ原台地などを開墾(!)

・・・1人が1年で一石の米を消費するという石高、そして100万が70万・・・。
9割以上のリストラを迫られ、見知らぬ土地に移住させられ、70万を飛び越すくらいの民人が暮らす土地柄となった静岡藩・・・。

会津藩がやはり移住させられて・・・なるお話はよく聞かれるのですが、この静岡藩のお話は余り知られてはおらず★
imgresとても苦労をしてまた、けっこうに人もお亡くなりになっていたりして、その結果が現在の茶畑になったんだとか。

・・・駿河といえば、お茶の香り~ィと、男伊達~♪
なんだか、はわゆサン的には脳天気に、そんなお土地柄だとばかり思っていたのですが。

明治天皇が10月13日に(もとは江戸であった)東京にやって来て、その城を皇居にするまで、そんなに長~い歴史があったとは・・・。
今年の正月は九州に行ったので、知覧(という土地)のお茶を今飲んでいるのですが、静岡茶ももう一回愛してあげようかな・・・と思う、はわゆサンであった★