やったらめったら暖かいかと思えば、今度はここ東京でも雪が降るとか、北ではなんだか、猛吹雪ときたモンです。(^_^;)
むやみに、やたらへんてこな天気が続いておりますが、みなさまお変わりありませんか?
1月の蛸料理が終って、あっという間に2月になりましたね、はわゆです。(^-^)
初午という事で、メイン食材は鰯ですねぇ、そうですねぇ、なんて簡単に決まった訳ですが、旬エッセイを手掛けようと調べてみますと何だか、以外とイワシと日本人の関係は深かったんです(!)
・・・そちらでも諸々ご紹介をしてますが、面白かったので、「きらきらエッセイ」でもそんなお話をしてみようかと思います。
・・・はてさて、イワシを漢字で書くと、魚ヘンに弱いと書きますよね。(゜-゜)
そのように書くことになった由来は、水揚げをすると、すぐにウロコ(人間にすれば皮膚)が落ちてしまって、外圧にも弱く、すぐに死んでしまう弱い魚だから・・・という事。
とにかく群泳するイワシさんは、一度網にかかるととにかく、もう(!)大量に獲れてしまうにも関わらず、かような訳で鮮度も落ちやすい。
大量に獲れるけれども、始末には急を要するしで、また、美味しいけれども脂が強くて生臭い。
そこからどうも、下賤な魚であるとか、その名さえも「卑(いや)し」からイワシに転じたなどと、その存在を貶める説はいくつかあるそうです。
ちなみに、宮中で使われる女房言葉での鰯の別名は、「紫」とか「御紫(おむらさき)」、または「御細(おおそ)」とも呼ばれたとか。
・・・そういえば、「源氏物語で名高い紫式部が、実はイワシが好きだった」という話があるそうです。
そこから宮中では鰯を「紫」と呼ぶようになったなんて話もありますが、当時の社会(つまり、平安貴族の間)ではイワシを軽蔑していたので、あまり食卓に上る事はなかったんだそう。
なので、イワシが大好物の紫式部さんも、好物なのに、なかなか口にする事ができません。(´_`。)
ある日、式部の夫の藤原宣孝(ふじわらののぶたか)が外出をしたので、式部さんにとっては、これはチャンスです。
ワクワクしながらイワシを焼いていると、なんと夫が何故だか、戻って来てしまいました(!)
慌てて隠そうにも、部屋にはイワシの匂いが充満しているしでもうはや、どうにも隠すことが出来ません。( ̄_ ̄ i)
・・・夫の宣孝はおもむろに口を開き、
「かように卑しき魚を・・・」
と式部を諫(いさ)めようとした処、そこは歌詠みの天才、式部です。
即座に、
「日の本に はやらせたまふ 石清水(いわしみず)
まいらぬ人は あらじとぞおもふ」
と、詠みます。
この歌に出てくる石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、京の都からみて裏鬼門(西南)にある神社です。
当時からすでに、鬼門(東北)を守る比叡山延暦寺と共に篤い尊敬を集め、都の守護はもちろん、国家鎮護のシンボルとしても名高く、平成の今もそこは変わりありません。
その石清水の名に「イワシ」をかけて、「八幡宮に誰もがお参りするように、イワシを食べない人はいないでしょう」と詠んだそうですが、それで夫の宣孝は、すっかりと妻の才能と機転の良さにうたれてしまい、それからは夫婦で仲好く、こっそりとイワシを食べて楽しんだ・・ということ。
あちこちでこの話はまことしやかに紹介されているようですが、これは実は和泉式部の事であったとか、証拠の文献が他にもあるとかで(?)
とにかく、平安から江戸の間にも様々な出版物があったようで、これらのそちこちにまた何かの引用、誰かが編集、して紹介されているのが和泉式部さんだったり、紫式部さんだったりなようですが、当時を知る貴重な文献・お伽草紙の中でも、深く鰯に触れたお話があるようです。
江戸時代の寛文年間の頃ですが、つまり四代将軍家綱の時代ですね。
その頃に、大坂は心斎橋の当時の本屋さん、渋川清右衛門さんが『御伽文庫』なる名作集を監修しました。
いにしえの面白き草紙・23編が収録されているそうですが、この中の一つに『猿源氏草紙(さるげんじそうし)』というお話があります。
このお話自体は、室町時代に出来たとされてますが、作者は未詳だとか。
主人公の猿源氏(さるげんじ)さんは、伊勢国阿漕浦(いせのくに・あこぎがうら・・・現在の三重県津市)の出身で、鰯商人として京都へのぼります。
当時のイワシの売り文句が、「鰯かふえい(買わんかね~)」と言ったらしい。(-“-)
この声が美声だったのか、とにかく好評で鰯売りとしての商いでは、大成功(!)
・・・そんな頃、なぜか主人公の猿源氏さんは、身分のまるで違う、上流階級専門の傾城(芸者)の蛍火さんに、一目ぼれをしてしまいます(!)
・・・この傾城と呼ばれる芸者さんは、大名格の殿方しか相手にしないという、いや、気高いお方なのです。
すっかり恋の病に蝕まれて、もはや商いどころではなくなった猿源氏さんが、とにかく恋の炎でなんとか、とうとう大名・宇都宮氏の名前までも語って、当時大流行りだった和歌連歌のテクニックを駆使。
そしてついに、ついに想いを成就させてしまうというお話なんだそうです。
「汚い・生臭い・ついでに身分が低い」、今でいう3K男の猿源氏さん(現代ではこれ、キツい・キタナイ・危険を指します★)が、見事高値の花の、世もうらやむ美女をゲットするという、夢のようなお話なのです。
後にこのお話は、割腹自殺をした事で名高い(?)三島由紀夫さんが、歌舞伎の脚本『鰯売恋曳網』の下地にもしたそうです。
ですが、鰯売りの猿源氏がたしなんでいた和歌連歌(わか・れんが)というのは、そういえば和歌って、「五・七・五・七・七」で詠みますよね。
これを1人で詠めば和歌だし、連歌の場合は、上の句「五・七・五」と下の「七・七」を分けて、何人かで詠んだりして楽しむといったような風流の一つで、室町の後期に流行り始めたのだそうですが、この「猿源氏」は紫式部の「源氏物語」の庶民版草紙とも言われています。
そういえば、節分といえば「節分おばけ」なる風習があるそうですね。
節分の日に仮装(!)をして、鬼を追い払うそうですが、旧暦の立春が新年なら、節分は大晦日に当たるそうです。
「旧年の厄や災難を払い清める、平安時代の宮中行事」の「追儺(ついな)」が、室町時代以降には豆を撒いて悪鬼を追いだす行事に発展したのだとか★
鬼を追い払うための「追難式や豆まき」に加えて、仮装をして鬼を追い払ってしまうという風習は、江戸の頃に始りました。
これは、昭和初期にはまだ、京都を中心に広く民間に行われていたそうですが、太平洋戦争を堺に衰えを見せ始め、今では京都祇園や大阪北新地などに残るだけになってしまったんだそうです。
節分には豆撒きが定番ですが、これは中国から伝わった風習なのだとか。
日本では、昔、京都の鞍馬に鬼が出たそうで、その時には毘沙門天さんが助けて下さったのだそう。
かの方のお告げにより、大豆を鬼の目に投げつけてみたところ、なんとまぁ、退治できてしまったというお話があるそうで、まるでこじつけのようではありますが、「まめ(つまり、魔の目)」に豆を投げつけて「魔を滅する(・・・つまり、これもマメ)」という、実にもう、豆々しいお話★
かような訳で、豆には魔滅の意味、つまり無病息災のパワーがあるとか。
豆まきは、家長または年男(その年の干支の産まれの人)が撒くのが良いとされていますが、これもご家庭によって様々なよう。
自分の年の数だけ、豆を食べると無病息災と言われ、子供の頃はもっと食べたくて、はわゆサンなんか、わたわたとしたモンです。(^_^;)
ただ、豆撒きに使う豆は、炒った豆でなくてはダメだとか。
なんでも、生の豆を使うと、拾い忘れた豆から芽が出て来るとか(?)
これが縁起が悪いらしく、また「炒る」は「射るにも通じる」そうです。
いや、節分にイワシだけで、これほどの資料に恵まれ、調べ物の苦手な・・・はわゆサンは、倒れそおです。(^_^;)
今年は小規模ながら、5月に『殺陣ライブ公演』も決まっているので、とにかく、まめまめしくいきたいと思います。
旧暦正月明けて「ねんきら」、よろしくお願い申し上げます。(^-^)
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