9月に入りました。
・・・昨年の今頃は、林邦史朗先生の病状がいよいよ発覚!
10月の末に亡くなられるまで、とにかく走り回っていた気が致します。
それゆえに、今が一番辛くも感じ、尚且つ乗り越えねばとも思ってやっぱり、走り回っている・・・はわゆサンです。
皆さま、いかがお過ごしですか?
昨年の夏も暑かったんですが、今年の夏も素晴らしかった・・・。 (-_-;)
そんな中で、お誘いがあったので・・・はわゆサン★
山浦文友香さんというハーブ奏者の演奏を聴きに、台風が接近する中、会場へと向かってみたり。(そこは品川、ベイエリア・・・★)
また、朝も早から、写経に挑戦(!)してみたり。
これまた、はわゆ兄と一緒に、台風が急接近をしているという伊豆の大島へと旅をしてみたり。
・・・観光客はする事がなくって、聞けば皆さん、ひたすらにレンタカーなどを走らせての台風堪能ツァー!を敢行されていたというお話でしたが、こうしてみるとけっこう、何かしら夏っぽい(?)事をしていたんですねぇ、はわゆサン★
はてさて。
「ねんきらHP」は、食べ物の歴史を通して時代劇を勉強してみよう!・・・というテーマをもとに始めてみたのですが、、、
これが結構に、思いもがけずに様々な道へと、はわゆサンを誘ってくれました。
今回は、そんなお話をしてみたいと思います。
さて、HPのネタともするべく、様々な「勉強会なるイベント」に参加をするようになった・・・はわゆサン★
先日は、教養講座なるイベントに、参加をしてみました。
・・・考えてみれば、はわゆサンは大学に行っていないので、一般教養とかの講座にはとんと縁がなかったんです!
第1回目は、観阿弥と世阿弥についてだったので、一応は演劇を目指した身(!)な訳ですから。
一回くらいは聞いておいた方が良いかな、と思って申し込んだのですが(!)
・・・出張(行き先は、右写真から察して下さい★)からの戻りが遅くなってしまい、何故か2回目の「日本の古典~古事記から鎌倉時代まで~」を先に聞く事になってしまいました。
今度こそ、観阿弥世阿弥、がんばりたいと思います! (^^;)
・・・はてさて。
はわゆサンはけっこう、古事記やら日本書紀といった古典にも、かつて目を通した事がありました。
それは例えば、実家のある小金井市での市立図書館での蔵書であったり。
昨今は、マンガ「日本書紀」なんてのも手軽に、本屋さんの書棚に並んでおります。
でもでも、歴史的背景や、学術的な処からの方向でのお話は聞いたことがなかったので、とっても楽しい時間となりました。
日本の古典の教養ということで、まずは古事記に始まって、日本書紀、万葉集と来て、古今和歌集へ。
さらには新古今和歌集、伊勢物語に枕草子、源氏物語ときて徒然草、方丈記に至るまでと、お話は続きました。
2時間ほどの講義でしたが、タイトルだけ知っているモノもあれば、読了したモノもありました。
・・・はわゆママが古典が好きでしたし、彼女の影響で・・・はわゆサン★
小説家・田辺聖子さんのファンでもあり、かのお方は、古事記や伊勢物語の本も出されてますし、方丈記の引用のある小説もあります。
講師の方が仰るには、この講座の趣旨というのは、
「一応の説明はします。
ですが、もし興味が沸いたら書店などで色々と今は資料が手に入りますから、どうぞ手にとって研究をして見て下ささい、これは日本人の心なのですから」
という事でした。
さて。
はわゆサンはもともと、林邦史朗先生創始の武劇を広めるべく、プロデューサーなども務めていました。
林先生としては、「ドラマの添え物(?)としての殺陣」ではなく。
「殺陣をメインにしての、ドラマ構成を目指した舞台(もちろん、映像でも良い)」なんですが、これがまた難しいんです。 (^_^;)
「日本の武術」は、たしかに「日本の伝統文化」ではあるけれども、芸能ではない(!)
「林先生だからこその、独自の世界」なので、2014年の最後の武劇公演の折には、「殺陣師が行う武劇公演の取材」という事で、記事の分野としても「芸能面」なのか、「文化面」なのかで、新聞記者さんの間でも意見が分かれていたんだそうです。
「殺陣」とは一口に言っても、それがどんなモノなのか、伝わらない事も多くありました。
なので、もっと文化性を高めた方が、お客様には理解がし易いし、切符も売りやすいのではないか・・・。
はわゆサンはそう考え、「武劇の演目に+αがあれば、もっと日本の文化として、受け止める側の理解が得られるのではないか・・・」なんて、思っていたんです。
武劇は、劇(エンターテイメント)なので、その下敷きになるドラマ部分の題材として、例えば落語の勉強をしてみたり。
・・・はたまた、いろはカルタやら、万葉集を紹介した書物についても読んではみたのですが、これは使いにくい、こちらは難しい、なんてやってました。
結局、具現化する前に林先生が亡くなられてしまったので、ちょっと頓挫した形になっていたんです。
・・・この教養講座で、改めてその事を思い出し。
その中身についても楽しく振り返る事が出来た、そんな・・・はわゆサンだったんですが★
渋谷に引っ越して来てから、今年で6年目になりますが、そういえばアパートの裏には、國學院大學がドドン(!)とそびえ立っております。。。
以前に、温故学会の記事をこの「きらきらエッセイ(クリックすると記事に飛びます★)」でも紹介しましたが、その時、館長さんに國學院大學博物館なるモノがあると教えて戴きました。
・・・温故学会は、群書類従という資料を保存・販売している場所なんですが、もう少し深く知りたければ、そちらの博物館も(何しろ、無料なので★)訪ねてみては、との事でした。
こちらの博物館では常時、縄文時代やら、弥生時代の資料展示をしているんですが、その他に企画展なるモノも月替わりで開催をしています。
たまたま、この時の企画展は、
「武蔵国高麗群 建群1300年 日本に根付いた渡来人 高麗郡と高麗神社」
といった、趣向でした。・・・おやおやっ!?
これは、一体・・・っ??? ∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
日本古典の一つ、日本書紀には、神功皇后の新羅討伐の記載がありました。
これは720年(奈良時代)に成立をしたという、日本の歴史書です。
・・・神功皇后が、「新羅征伐をせよという、ご神託」を受けて、(妊娠中でありながら!!)男装をして大和から軍船に乗り込み新羅、つまり今の朝鮮半島へと向かいます。
そしてとうとう、筑紫(現在の福岡県★)の辺りで産み月となり、産気づいて苦しい中を、なんと(!)
石に腰を挟んで、産気づくのを必死で抑え(!!)
「戦が終わって、ここへ再び戻った後に、ここで出産をさせて下さい」
と神に願ってから、いざや出陣!!
・・・新羅を降伏させて、更には高句麗、百済までも従えた上でかの地に戻り、無事に出産を終えて・・・その子が応神天皇(現在は全国津々浦々の「八幡神社」にお祀りされているそう★)という、お話でした・・・。 (゜_゜;)
・・・この、産気づいてから出陣しての云々、といった辺りはともかく。
日本は当時、新羅や百済、高句麗に出兵をして、服従させていたという真実があったんですね・・・。 (‘_’)
そういえば以前に、万葉集を紹介した書物を読んだ折。
当時の日本には多くの渡来人が住んでいて、その方が詠んだ歌も多く編纂されている、と紹介されていたのを思い出しました。
そして博物館でも、こう紹介をされていたんです・・・。
今から1300年前(奈良時代)、想像をするより遥かに国際的な環境に日本はありました。
660年に百済が、668年に高句麗が滅亡をすると、倭国に多くの人々が逃れて来ました。
・・・単一民族の日本では考えられない事ですが、多民族国家が暮らすかの大陸では、たとえば百済が滅亡をすれば、「滅ぼした方の民族から、滅ぼされた方の民族は、根絶やしにされる(!)」と聞きました。
・・・それは必死に、海を渡って逃れて来られた事でしょう・・・。 (>_<)
そして、716年。
東国に移住をしていた高句麗人、1799人が武蔵国(現在の埼玉県日高市・飯能市周辺)に移され、そこは高麗郡という名で呼ばれるようになりました。
そこで今回は、高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)を祀る「高麗神社の歴史」を振り返り・・・といった内容の企画展だったのです。。。
ところで・・・はわゆサン★
最近、新宿駅かなんかで電車を待っていると、電光掲示板に「高麗川行き」なる字を時折、見掛けておりました。。。
そして「ねんきらHP」では、このエッセイを書く折での下調べで、資料にニンジン、ニンジンとただ書かれてありながら、実際には朝鮮人参を表し(クリックすると、記事に飛びます★)。
・・・その辺りでは、例えば「渤海」だとか。
とにかく、さまざまな名前の国が当時の中国、朝鮮半島の辺りに出来ては消え、消えてはでき・・・。
ちなみに朝鮮人参も、「別名では、高麗人参と呼ばれた」時期も、日本にはありました。
それはかつての、かの地にあったという国の名前だと、資料にはあったのです・・・。
はわゆサンが、「高麗川行き」というプレートを見た時。
これって高麗(こうらい)とも読めるなぁ、な~んて思ってはいたのですが★
・・・まさかホントに、あちらの人達が日本国へと移り住んでいて、こうして綿々とs今もこの国に子孫の皆さまがお暮らしになり、ましてや地名としても残されていたとは・・・★
資料によれば、日本に亡命していた高句麗人の中には、中央政府の官僚にまで出世をした人もあったとか。
そして霊亀(れいき2・716)年。
駿河、甲斐、相模、上総、常陸、下野(それぞれ、静岡や山梨、神奈川、千葉、茨城、群馬など)に移住されていた方々が、1799年に武蔵国へと移られて、その地を高麗郡と名付けたとあります。
故国を失った百済・高句麗、そして新羅の人々も、そちこちに住んでいたのが、この地にこの時、一体何故に集められたのか・・・。
・・・官僚になった人もあれば、やっぱり土地に馴染めない人なんか(アウトロー?)もあって、それで一つ処に集わされたものでしょうか。
そこまで資料にはありませんが、
「・・・そ、それで今も地名となって、こうして電車の終着駅にもなっていたのね★」
と、とにかく心の底から驚く・・・はわゆサンです。 (^_^;)
ちなみに、高麗氏とは。
開拓の牽引者が高麗王若光というくらいで、かの地の王族の末裔が代々、この地に暮らしていく事となり・・・。
高麗王若光亡き後、かの地に高麗明神(又は、大宮大明神と呼ばれる)神社が建立。
かの一族は神社の大宮司となり、また神社を管理するお寺として「大宮寺(だいぐうじ)」が建てられ、その住持職も世襲(!)
その後は、奈良は吉野山地の大峯山で大修行をして、なんと山伏としても長らく活動!
そんな・・・高麗一族だったんですが。明治になって、「神仏分離」なる掟が出来たので、山伏から神職に再び復飾。
神社と寺社と、2つあった建物も統一されて、再びそこは高麗神社と称されるようになり、いまもかの地にその神社はあるのだとか・・・。
・・・日本人に産まれながら。
ましてや、地名にまでちゃんと残っているのに、知らない事って多いんだなぁ・・・などと思いつつも★
なんだか、心が豊かになったようにも感じた瞬間でした。 (^_^)/