先月の、はわゆサンの実家の会社の「明道社80周年記念(!)クオカードプレゼント!」
こちらに、たくさんのご応募を戴きまして、誠にありがとうございました~っ。(^-^)
記念のクオカードですが、はわゆ兄の希望により、こんな感じに仕上がりました。
80年の歴史を持つ実家の会社ですが、長らく広告代理の仕事のみで経営して来たので、商品らしきモノを扱ったのは、はわゆサンの「殺陣教育DVD」くらいなんでございます。 (^_^;)
はわゆ兄の希望があって、もちろん林先生には写真使用の許可を得ての、このカード制作となりました。
ちなみに当社60周年の折には、長らくお取引戴きました皆さまには、白ワインを贈っておりました。
今回は80周年という事で、赤ワインを贈らせて戴いたそうです。
クオカードプレゼントですが、当選は発送を以て代えさせて戴きます。
たくさんのご応募、本当にありがとうございました。
・・・はてさて。
はわゆサンが5月の「ねんきらレシピ」を何とか仕上げたのは、GWの真っただ中でございました。。。
お天気も良く、ご近所さんはもちろん、同棟の大家さん宅でも、親戚が多く訪ねての大賑わい。 (゜-゜)
そんな中で、シコシコと作業を進めていた・・・はわゆサン★
銭湯で菖蒲湯を楽しんだりと、ちょいと連休気分も楽しみましたが、今回の旬エッセイは皆さまご存知の通り、鰹と空豆です。
・・・空豆の資料があんまりないのにも閉口しましたが、鰹の資料の方はまぁ、さすがは江戸人が好んだだけの事はある食材です。
はわゆ蔵書を紐解いても、紐解いても、またもや何やら、新しい事が出てしまい、読んでいるとなんだかこれまた面白くって、書いては増やし、書いては増やしを繰り返す日々。
気付けば、あっという間に5日も経ってしまってました。 (´_`。)
・・・仕上げたいのに、それが出来ない★
とても、旬エッセイ1本では、鰹サンの記事は、収まりきれない(!)
・・・致し方なし、こちらでも鰹を取り上げてみるかい、・・・って事になりました。
宜しければ、お楽しみ戴けたなら、幸いです。 <(_ _)>
「目に青葉 山時鳥(ほととぎす)初松魚(かつお)」
・・・はわゆサンなんかが申すまでもなく、これは江戸中期の有名な俳人で、山口素堂(やまぐち・そどう)という人が詠んだ句。
当時は、女房を質にいれても(食べねば)・・・、という程に熱望されていた初物の鰹さんですが、実は鎌倉時代の辺りまでは、高貴なお方々は口にもしなかったとか★
室町まであと2・3年といった頃の鎌倉末期に、吉田兼好法師さんが随筆「徒然草」を出版しています。
その中に、「鎌倉の海に、鰹と言ふ魚は、かの境ひには、さうなきものにて、この比もてなすものなり」なる下りがあります。
現代語に訳すと、「鎌倉の海で獲れる鰹という名の魚たぁ、最近になってあちこち、高級魚とかいうようになってきたけれどもなぁ~・・・」。
続きは、「鎌倉の爺様達に言わせりゃぁ、俺らが若い頃にはこんな魚、高貴な方々は全く食べないのは当たり前、貧乏人だってこんな魚、頭は食べずに捨てていたもんさね。
そんな魚も世も末となりゃ、金持ちの膳にも並んでしまうのかい、あぁ何だか、なんだかねぇ~・・・」といったお話に★
・・・ついつい、お江戸の頃の鰹フィーバーの記憶が強いせいか(?)
せいぜい鰹と日本人は、その辺りからの付き合いなんだろう・・・なんて思いきや。
なんと(!)
時代は縄文の前期にまでも遡り、・・・この頃には縄文人、犬を使っての狩猟が始まっていたり、栗を主食として栽培していたり。
魚だって、罠を使っては網で掬う「陥穴漁」が、大変に盛んだったとか。
・・・おぉ縄文人、ただの古代人だと思っていたのに、もうはや、ヒトとしての智恵がある。
捨てたモノではないと、何だか思い知ってしまった・・・はわゆサンである★ (^^;;
なので鰹さんも、もう当時は釣り針で釣り上げては、縄文人には愛されていました。
この痕跡は、福島県は弘源寺貝塚(現・福島県いわき市)にあるんだそうです★
・・・さて、時は過ぎ。
あともう少しで奈良時代かなぁという頃にもなれば、さすがに日本人も、だいぶんに進化をしております。
中国との交易の中で、日本でも文字が発達。
色々と書きしるした遺蹟なんかも発見されているようで、藤原宮跡からは、・・・木簡とあるので、木に文字を墨で書いたモノのようですが。
地方の産物として、鹿のすしやら、猪の干肉などと並んでカツオは、堅魚(かたうお)の名で並んでおります。
「鰹という文字」はこの、「堅魚」から成ったとの説もありますが。
また一方で、そういえば日本には古事記の時代から、鰹の加工品、鰹節がもうありました。
当時はまだ堝型(なべがた)の土器で煮て乾燥させただけのシロモノですが、保存食なので、もちろんに堅い(!)
・・・なので、堅魚の文字は、ここから来たとも。
ちなみに中国では、この文字は「けん」と読んで、「オオウナギ」の意味に。
・・・けっこうに同じ漢字でも、中国と日本では意味が違うんだなぁと、驚かされます。
・・・まぁ、縄文の頃から愛されていた鰹さんですから。
習性的に、太平洋岸側でなら、どの時代でも良く上がる魚だったのだろうと思われます。
さて、さらに時は過ぎ。
平安の中期になると、「延喜式(えんぎしき)」という書物が発行されます。
これは、「律令(という法律)の施行細則」なんだそうですが、・・・はてさて★
なぜに、法律の細かい決め事を書いて下々に知らしめた書に、カツオの料理法が様々、書かれているのでしょうか???
歴史と調べ物が、大の苦手の・・・はわゆサン★
どう考えてみても、「食べ物でしかないと思われるカツオの名前」や、さらに加工名までもが、法律書に何故に出てくるのか、とんと判りません・・・。(^_^;)
・・・ところが、ドンドン(!)
調べていくと、この書物自体は平安に出版されたものの、法律自体がこれまた、大化の改新という歴史的事件にまで遡ります。
・・・そういえば、そんな事件が日本の歴史には、ありました。
中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが、蘇我入鹿を暗殺(!)
その後、「改新の詔(みことのり)」なる宣言を、日本の初代天皇・孝徳さんが発します。
・・・この事件も今では、様々な説が叫ばれているそうですが、可哀そうなのはとにかく庶民です。 (T_T)
聖徳太子が亡くなり、蘇我氏がとって代わって勢い付きはしたものの、それまでとは何ら変らぬ暮らしが出来ていました。
・・・それがある日、蘇我入鹿がクーデターに遭って、蘇我氏が滅亡(!)
何やら新しく統治者として「天皇」なる人が出て来て、色々と法律を作っては、定めていきます。
・・・まぁ、色々決めていった中で、「租庸調制(そようちょうせい)」というのが、ありました。
この租庸調、中国の律令をモデルに日本には、新しく取り入れられた税法なんですが。
まずこの「祖」というのは、収穫(日本なので、もちろんお米★)の3%を国に納めること。
ついで「庸」とは、往復交通費を自腹で宮にまで出向き、天皇が定めた一定期間、宮でタダ働きをすること(!)
そして「調」は、この他に「地方の特産物を、税として納めなさい」という、余りにもなお話。 Y(>_<、)Y
当時の日本の庶民は、この「3形態の税金を納める義務(!)」が天皇より課せられてしまいました。
「生(なま)堅魚」や「荒(あら)堅魚」、「煮(に)堅魚」、「鰹腸醤(わたひしお)」に「堅魚煎汁(いろり)」・・・などなど。
煎汁は、鰹の煮汁を差すそう。
当時は鰹サン、「中男作物(ちゅうなんさくもつ)」や「交易雑物(こうえきぞうもつ)」として、大活躍★
鰹はその習性ゆえに、太平洋側の諸国で多く獲れていたよう。
伊豆を始め、日向や豊後、土佐、阿波や紀伊に志摩、遠江に駿河、相模に安房・・・などから、貢納されていたそうです。
さてそれから、鎌倉の後期にもなると、鰹は生でも食べられるように。
室町時代の調理書、「包丁聞書(ほうちょうききがき)」には、「鰹の刺躬(さしみ)」や「生鰹」の文字が見えます。
さて、武士の世になってくると今度は、「鰹は、勝男に繋がるから縁起が良い」とされて、侍が出陣の前に初鰹を食べる習慣も始まります。
・・・最も、「戦が、いつも初鰹の頃にある」訳ではないでしょうが、武将が大変に好んだのか、貢物として使われたり。
特に鰹節は、戦場では重宝されました。
徳川家康も関ヶ原の戦いの折には兵糧として持って行ったなど、あちこちにその活躍の様子が遺されています。
・・・江戸って考えてみれば、そんな家康が作った侍の町ですよね。
庶民がお殿様に習って、実際には「本当に粋なお侍さんが、どれほど江戸の町に居たのか」判りませんが、そこに便乗するのもまた、江戸っ子なのかも。
「お侍さんが、嗜み(たしなみ)なさるんだから・・・」
「さすがは、お侍さんだ、勝つにカツオを掛けてかぃ、おいらも乗るぜぇ」
なんて処から、もしかして、大ブレイクが始まっていったのかも知れません。
五代将軍・綱吉の頃に出版された本草書に、「本朝食鑑((1697)」という書物に。
・・・この本草書というのは、多くの和漢の薬草や食べ物などの名前はもちろん、来歴や形状、効能までも紹介してますが、カツオの食べ方についても、
「刺身によく、霜降り、生(なま)りにつくるとてよし、生りは夏期の賞味たり。また鰹節、鰹醤を製す」
と、あります。
この頃も、もちろん初鰹は、相模灘の辺りで獲られていました。
獲れた鰹を今度は、夜早船で江戸まで運んでいたので、通称を「夜鰹」と呼んでいたとか★
例の「お江戸の初鰹ブレイク」ですが、松尾芭蕉の弟子で甚角(なので、五代将軍・綱吉の頃のお話★)が勢い付いて、
「初鰹 一両までは 買ふ気なり」
なんて句を詠んでいるので、文献的には、この辺りが皮切りではないかとも。
戻りよりも、初鰹の方が、お江戸の時代では好かれてました。これは、鰹に脂がのっていなかったからなんですって。
・・・そういえば、今は日本人が大好物のトロだって、お江戸の頃は評判は良くなかったんですもんね★ (゜-゜)
「食べれば、75日も寿命が延びる」という言い伝えから、江戸っ子が初物好きになったとも。
当時は辛子味噌をつけて鰹を食べていたそうですが、あまりにもお江戸の民人が初物に熱狂するので、とうとう幕府の方で、こんなお触れが。
「この食べ物は、何月からしか食べてはいけない」
・・・ところが、江戸の民人の心意気をお殿様には、なめてもらっちゃ困りますぜっ!
魚だろうが野菜だろうが、「初」と名のつくモノは人よりも、先んじて食う!
・・・そこだけは、人には負けたくないという風潮がとにかく江戸には、上は大店の主人から、下は長屋の住民に至るまであったというんですから、まったく、笑っちゃいますよね。
・・・江戸では、こんなだったそうですが、これがまた、西の人にはまったく、そんな記風はなかった★
初物を、競い合ってまで買うような事は、関西人の人には合わないらしく★
きちんと旬の味として、お手軽なお値段で楽しんでいたよう。
・・・以上、はわゆサンを悩ませ続けた、鰹レポートでございました。 ( ̄_ ̄ i)